衝撃波の科学寄稿 高山 和喜 氏
第4回:衝撃波の医療応用
2006/04
22. 水中衝撃波とキャビテーション(その2)
衝撃波管を使って水や液中に強い衝撃波を発生するのは容易でないことが分かったので、微小電極の水中放電で衝撃波を発生しようとした。これは最初に想像したような単純な技術でなかった。水中放電の論文には、難しい技術やノウハウの記述は省略されていた。外国の大学や研究機関の研究室には、G.I.テーラーの実験を支えたトムプソン助手のような、 古参軍曹のような熟練した助手や技官がいて難しい実験はこの人達の貢献で、その技術秘伝は教授や助教授には伝授されていないから論文には書かれてない。沼知福三郎先生が高速力学研究所を創るとき、ドイツの大学の実験研究の伝統を高速力学研究所に継承した。充実した実験工場があり、これは実験家にとってスーパーコンピューターに相当した。学位を取って講師に採用され、しきたりに従って沼知先生の部屋に挨拶に伺ったら、「若い内は、実験をやり給え。」と言われた。日本の大学では、教授や助教授は優秀で実験に失敗経験を持たない。また、賢い人は失敗の懸念のある実験研究課題を選ばないから、失敗で学ぶという、愚者の後知恵はないし、多くの大学の研究室には、技術の継承に一生を捧げるような助手や技官はいない。研究課題は院生や若い助手に丸投げされている。院生は、頼るべき助手や技官もなく指導者に実験のノウハウを聞いても「論文を読み給え。」と言う以外に指導方針はないので、途方に暮れ実験結果を上手にまとめる技術を身につける。また、助手は巧妙手柄を焦って実験結果を飾って論文にまとめ、データ偽造の疑いも起こる。大学の研究室は、下士官なしで中隊長と兵隊だけの軍隊組織に似てきた。中期目標を約束させられ、有効な実験の支援なしに数値シミュレーションと精神力で突撃を繰り返す肉弾戦に似てきた。一歩退いて、将来役に立つ面倒な実験手法をじっくりと育てる余裕はなくなった。実験研究は失敗を通して学ぶものと信じている。一回の試行で成功する実験研究など余り無い。だから、沼知先生の指示は間違っていない。若いときは実験すべきだ。
放電で水中衝撃波を作る実験は泥沼状の研究になった。衝撃波過剰圧計測では放電の電気的ノイズが圧力変換器の出力に重なり、正負の電極間に発生する電弧の発生位置も放電毎に変動するので球状衝撃波の中心位置も正確には定まらなかった。気泡力学の嶋章教授との共同研究、壁近傍の気泡に放電で発生した衝撃波を作用させる実験を始め、球形からの形状の違いによって気泡崩壊は異なる様相を示し、気泡崩壊に水中衝撃波負荷が重要な役割を果たすことを知った。一連の実験を当時は精密と思い込んでいたが、今思うと、放電の再現性は不十分で精密でなかった。機会があれば、今利用できる精緻な圧力計測や二重露光ホログラフィー干渉計法で定量的な可視化も試みたいが、再実験の機会は巡ってこない。
当時、再現性の良い水中衝撃波発生を目指し煙火の火薬を水中起爆など、無鉄砲な実験を試みた。1976年、筑波の東京工業技術試験所(1979年に化学技術研究所に改称)の椎野課長と生沼技官が京都府立医科大学泌尿器科渡辺教授との共同研究で、膀胱結石に微小ドリルで開けた穴に微小アジ化鉛を挿入して、発破で砕いて取り出す治療法を開発した。これは火薬類が直接医療に貢献すると言う科学技術史の最初の例だった。
1980年秋、化学技術研究所の生沼技官に弟子入りして微妙なノウハウを含めて安全なアジ化鉛の製造法の伝授を受け、我々はこれを生沼の方法と呼んで秘伝にした。アジ化鉛の微小片を水中に張った木綿糸に接着し、パルスレーザー光を照射して起爆する方法を思いついた。木綿糸は細いので衝撃波と著しく干渉することもなく、整った球状衝撃波を発生できた(図22-1)。
水中衝撃波を二重露光ホログラフィー干渉計法で可視化した。100リットル水槽の水を一様温度に保つことは容易でなく水温むらがあり、水温の変化は対流を起こし密度変化を伴った。水中衝撃波をマッハ-ツェンダー干渉計で可視化すると、密度変動は地獄絵図を連想させる乱れた干渉縞模様を作り定量的な計測はできない。一方、二重露光ホログラフィー干渉計は二回露光の間の密度変化だけを記録するので、短い二重露光間隔では自然対流などの緩やかな密度変化は幅広い背景の干渉縞になって測定精度を損なわない。また、干渉縞次数とその空間分布は密度の積分値に対応するので、縞分布から密度や圧力を定量的に決定できる。実験室規模での水中球状衝撃波の定量測定ができるようになり、研究の精度は飛躍的に向上した。
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