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石油減耗時代を生きる「もったいない」を寄稿 石井 吉徳 氏

2006/04/19

ブッシュ大統領は「脱石油依存症」と宣言、変化した日本の新聞

ブッシュ大統領は2006年1月31日、一般教書でアメリカは石油依存体質の脱却すべきと述べた。それを「石油依存症」から脱却と大きな見出しで、日経、朝日新聞などが報じた。しかもブッシュ大統領は更に具体的にエタノールはトウモロコシからではなく、不要になった植物繊維などから作る、と述べている。 これは非常に重要なことである。現代農業は石油依存型であることを理解しているのであろう。これも日本のエネルギー論と大違いである。
一方日本では小泉総理は昨年「脱石油戦略」と発言し、今年の施政方針演説ではエネルギー問題の大切さを強調し、さらに「もったいない」という社会を強調した。そしてまとめでは「志を」と述べたのである。

石油文明史的な視点

これらの見解には「石油ピーク」という言葉こそ使ってはいないが、石油高騰が構造的であると認めたもの、と受け取られている。私は3、4年ほど前から「地球有限、石油ピーク」が迫っていると訴え続けていたが、ようやく実を結んだようである。
小泉総理の「もったいない」は、浪費社会からの決別という意味である。石油文明が大きな曲がり角に来ている、地球が有限であると日米のトップが認めたのである。
だが未だ「狼と少年」の譬えで否定する専門家は多い。資源について特に脆弱な日本において、不思議なことである。これは成長至上、マーケット至上、効率優先から脱却できないからであろう。また、「石油ピーク」を「石油の枯渇」と勘違いするからであろう。

公的機関の情報とは

国際的な機関、IEAなどは、まだまだ石油供給は需要に応えられるなどと公式見解を述べるが、これをそのまま受け取ってはならない。何故なら、石油企業、OPECなどの公式見解は基本的に政治的であるからである。これを地球科学的な、或いは資源論的な見解と思ってはならない。いわゆる埋蔵量について、企業では株価、経営者の評価に、OPECなどでは石油生産量の割り当て量などに直結するからである。
国際機関の公式見解などをそのまま追認しては、国家戦略は立てられないのである。生きた情報を本気で収集しなければならないのである。

石油減耗時代が来る

改めて石油減耗とはだが、その分水嶺である「石油ピーク」は、もうそこに来ており、私は2010年より前と思っている。日本は早急にそれに備える必要がある。ブッシュ大統領の「脱石油依存症」発言は危機感に溢れているが、石油がぶ飲みのアメリカが果たしてその依存症から脱却できるのだろうか。
日本も石油依存は深刻だがアメリカ程ではない。これからは全く違った国土、日本で自然と共存する道を見出すべきではなかろうか。日本の伝統的な奥ゆかしい「もったいない」言葉を国民的モットーとして、出来るだけ早く石油文明からの脱出の糸口を見出したい、そのための原点は「脱浪費社会」であろう。無駄をしないことである。無駄は実質的な生活水準、真の人間の幸せとも無関係だからである。

GDP成長至上主義の矛盾

徹底した省エネルギーは可能である。それは現代社会の至る所に浪費、無駄が蔓延しているからである。それにより見かけ上のGDPは減るかもしれないが、それで良いのである。
既に一世紀以上も前、「もう一つの経済学」、あるいは「第三の経済学」が芽生えていた。イギリスの経済学者、ジェボンズの「石炭問題」である。これは石炭減耗に端を発したものであるが、その後の豊富な石油がそれを葬った。
第三とは、資本主義、社会主義経済学(いずれも地球資源の有限性を考慮しない)ではないもう一つの経済学という意味である。この経済思想は石油減耗時代に改めて注目すべきものである。更に石油は「常温で流体の燃料」である。石油時代は石炭時代には戻れないのである。この経済論についてはこの程度に止める。私の書、ホームページを参照されたい。(http://www007.upp.so-net.ne.jp/tikyuu/index.html

最後の石油争奪戦が始まった

世界で頻発する紛争、宣戦布告の無い大規模な紛争、テロの頻発などは最後の石油戦争を思わせる。現在のテロ集団の最も効果的な攻撃目標は、石油施設、パイプラインなどであろう。最後の石油争奪戦はもう始まったのであろう。だがそれに気付かない日本、常に楽観論のみに耳を傾けようとする日本のエリートなどは21世紀をどう生きるのだろうか。
浪費を止めることは「脱石油依存症」の特効薬である。「石油ピーク」を遅らせる有効な手段ともなる。本来「石油ピーク」はダイナミックに考える必要があるのであって、予想が間違っているなどという、批判に意味は無い。
石油に代わるほどの基幹的なエネルギー源を、人類は未だ手にしていない、変革に対応する時間稼ぎが必要なのである。

「石油ピーク」は石油時代の終焉ではない

繰り返すが、石油に代わるエネルギー源はまだ存在しない。石油は人類が手にした今までのエネルギー源、森、石炭、原子力などと全くちがい、そのままで「常温で流体の燃料」である。このことは重要である。つまり、安く豊かな内燃機関燃料が乏しくなると言うことである。
20世紀初頭、車が大量生産型の工業化社会を生み、それを支えたのが石油である。石油は現代社会の膨張主義を生んだのである。
これは石油減耗時代とともに根本的な見直しに迫られよう。「量から質」への文明転換といっても良かろう。自然と共存、集中から分散社会への回帰を迫ることなのであろう。
しかしその変遷のための2、30年間を、大きな混乱無しに遷移するには、在来型の石油、今のエネルギー資源を、あらゆる手を尽くして国際確保する必要がある。
最後の頼りである中東の石油に、日本は殆どの90%も依存している。このような工業国は日本のみである。
しかも中東は地政学上特異で、日本が極めて理解しにくいイスラム圏、速に人口が増えつつある砂漠の国々である。言うまでも無いが、そこに住む人々にとっても石油は最初で最後の貴重資源であり、水すら石油を使って作る。このように石油資源は輸入する立場だけで考えては基本戦略を誤る。

「石油ピーク」は「石油枯渇」ではない

「石油ピーク」とは、生産が需要に追いつかなくなる、その頂点という意味である。これが分かり難いのは、バブルはその時は分からないからである。
アメリカ48州の石油生産のピークは1970年であった。K. Hubbertによる1956年の予想が、当時、彼は無視、冷笑されたという。アメリカがこれに気がついたのは1980年代も半ばになってからだという。
そして今、「世界の石油ピーク」である。
石油は発見されなければ生産できない。この当然を簡単に述べよう。まだまだ石油は発見される、大丈夫と専門家は言うが、世界の石油発見のピークは1964年頃であったのである。はるか昔のことである。殆どは中東の超巨大油田群であるが、当時石油探査、開発技術は今と比べものにならないほどであった。だが発見されたのである。巨大だからである。そして探す新天地は無くなった。今では石油発見量は生産の4分の一に満たないのである。やはり地球は有限であった。
そして今、「高く乏しい石油時代が来た」のである。
ここでもまだ反論がある。「高い」は分かるが「乏しい」が分からない、と言うのである。それはエネルギーの質、EPR(Energy Prpfit Ratio)を理解しないからである。

地球資源は有限、質が大切

人間は発見しやすい資源から使う(条件の良いもの、儲かるものからである)。そしていわゆる新地域とは、小規模、大水深、極域など、条件の悪いところばかりとなる。
話題の超重質油、カナダのオイルサンド、ベネズエラのオリノコタール、そしてオイルシェールなどはEPRから見て、在来型の石油と比べ物にならない。EPRが小さい、つまり得られる出力エネルギーと必要とされる入力エネルギーの比がとても小さいのである。石油が60とすれば、オイルサンドは1.5といった具合である。
それでは原子力という向きも多いが、そう簡単ではない。原子力も「上流から下流」まで、石油に依存する。上流のウラン採取から中流の原子力発電所の建設、運営においても石油インフラに依存しており、下流の放射性廃棄物の扱いもそうである。そしてウラン資源も無限ではない。高速増殖炉を、どう位置づけるかも大きな問題である。そして石炭、天然ガス、原子力は常温で流体の燃料では無い。

近づく「石油ピーク」

「石油ピーク」は今そこにある問題である。ピーク後の石油は年率2%で減耗する、と言われている。
これは成長を当然視する現代人にとって、大変なことなのである。現実的な戦略が早急に求められる。しかし未だ日本は石油ピークそのものを認めない。巷では新エネルギーともてはやされるメタンハイドレートは資源とは言えない。濃縮されていない、油田のように掘削すると自噴するものではないからである。地層に分散して存在する固体、水とメタンの水和物がメタンハイドレートなのである。
また未来は水素でというが、水素は一次エネルギー源ではない。簡単にトウモロコシからと言ってはいけない。現代農業はエネルギー浪費型、EPRで考えるべきである。その意味でブッシュ大統領の一般教書の言は究めて本質的なのである。改めて在来型エネルギー源を改めて考え直す必要がある。繰り返すが、「脱浪費社会」、「もったいない」は最も効果的なエネルギー戦略なのである。

成長至上主義の矛盾、浪費社会を変えよう

世界中で皆が経済成長は当然と思っている。だが本当にそうなのだろうか。既に巨大化した経済の1~2%増でもその正味で極めて巨大である。それでも現代人は低成長というようである。特に最近の四半世紀は異常と言って良い程で、石油消費量はウナギ登りであった。石油がこの異常を支えたといっても過言ではない。
だが、いつしか人類はこれを「当たり前」と思うようになった。その頂点にいるのがアメリカだが、そのアメリカは世界最大の債務国であり、膨大な世界からの借金で浪費型の成長を遂げている。アメリカスタンダードをグローバリゼーションと世界に売り込むが、これでは地球は持たない。大量の物流、巨大な国際物流、取引は低廉な船賃に依存するが、それは石油あってのものである。大量工業化社会はもう成り立たない。地球は無限ではない。

リサイクルより先ず減量

そこでリサイクルとなる。だが、これは「3R:Reduce, Reuse, Recycle」の最後に来るべきもの、最初のReduce,減量が最も大切である。「もったいない」はこれに通じる道である。日本はアメリカの浪費社会の真似をしてはならないのである。
経済成長はGDPで計る。だがこれは既に述べたが地球、自然の有限性と相容れない。自然破壊はむしろGDPを成長させるのである。大量に物を作りGDPは増加したとする、それが直接間接的に環境を破壊し修復したとすれば、そこでまたGDPが増える、ダブルカウントでGDPは成長する。

マネー主義のもたらしたもの「志の喪失」

アメリカの浪費型成長は世界からの借金によるが、それが可能なのはドルが世界の通貨だからである。そして世界最大の債権国は日本である。日本は常に「マネー敗戦」している。
だがお膝もとの中南米など、アメリカの言うことを聞かない国が増えている。ヨーロッパはEUでまとまって対抗する。隣国の中国も強かだが、反して日本はお人良し、戦略が無い。もう何かを変える時期に来ているのではなかろうか
消費が経済成長を促するのは当然であろうが、それが浪費であってはならない。マネー至上主義に陥ってはならない。今の日本、物余りの中、心は貧しくいつも不安である。インドの科学者V.シヴァは、勝者が全てをとる市場至上主義は、アジアを始めとする途上国で、伝統的な民族の誇り、人々の絆、社会の連帯を根底から破壊したという。そして地球規模での自然破壊へと誘導しているというのである。マネー至上の飽くなき欲望は、人の心と自然を破壊するようである。

「もったいない」を

21世紀、「自然と共存、集中から分散、社会の価値観と理念の多様化」などが生存の基本なのではなかろうか。「効率優先社会」、「技術至上主義」、「より大きく、より速く」はもう限界である。人類は既に地球の基本的な太陽エネルギーの固定、光合成の営みの40%も消費すると言う。ホモサピエンスというたった一種がである。
日本はどう自然と向き合うか、海に囲まれた山岳75%の島弧日本の生きる道が、大陸の国々、アメリカ、欧州、中国と同じであってよいはずはなかろう。大陸と地勢を異にする日本の自然で生きる日本の論理、アジアらしい知恵を創造したいものである。その基本は先ず「浪費しない」、「もったいない」である。

石油発見量の減退と需要の伸びー広がるギャップ 破壊過程


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